画像は、セッション風景より
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3回目のセッションはとにかく仕事に関係なくても私の考えてきたこと、
また感じていること(大仰に言えば生きざま)を
「洗いざらい」門間さんがアウトプットさせてくれました。
よくよく考えると、あんなに好きに思いの丈を話していい場は普通にないと思います。
大きな笊(ざる)に人形大になった私は横たわっている。
その大笊を常に清水(せいすい)が湧き出る泉に差し入れ、
私の息が苦しくないよう氣をつけながら、
余計な泥を落とせるよう笊の中で私を揺蕩わせ、
ざっぶんざっぶん綺麗にしてくれたようなものです。
人の體(からだ)は揺れると自ら真ん中を取り戻すのですが、
門間さんの笊の中で360°全受容かつ整理された私は
かなり綺麗になり真ん中を取り戻せました。
会う人に「まとうオーラがちがう」と言われるようになりましたから。
あと少しの古い何某かの汚れがついている、
この状態で臨んだのが今回のセッションでした。
それを見越したかのように、
私が一番望んでいる自己表現=仕事の中身について、
門間さんがごく自然に聴き出してくれ、次の段階に進んだ感触がありました。
今回は、かなり綺麗になったものの、あまりに馴染んで皮膚か垢か分からない、
けれども変わりたい自分にはもう違和感となったものを門間さんが浮かしてくれた感があります。
あとは自分で落としていけば良い。待っているのは文字通りこれまでの景色と少し違う世界!
スポーツの世界では西洋医学同様、誰の目にも見える「エビデンス」が最優先事項。
人のカラダを扱う限り、間違いのない汎用性の高さは必要なのですが、
汎用性と対極にあるのが個のカラダ。それこそ「唯一無二」の権化です。
量をこなす世界では、カラダの思念は置いてけぼりで、そこに耳を傾ける者は少ない。
思念=脳、脳ですべて解決すると思われてるきらいがあります。
それだけしかない。そこに不健康を感じます。
私は四柱推命や五行易学の師範でもありますが、
陰陽バランスよく円く整ってこそ流れが起こり常に巡ります。
どちらかに極まったり1つに偏ると溜まって澱んだり滞ってしまう。
それが、痛めたり壊したり不調に陥る原因なのですが、スポーツ界では当たり前になっています。
なぜ当たり前?スポーツ(とカテゴライズされるもの)は、人がわが肉体と向き合うことで先の光を見る素晴らしいアイテムなのに。この疑問が常に私を駆り立てています。
復調するのも、予防するのも、飛躍するのも最初にすることは同じ。
「感じにいく」ということです。
感じることなしに、現在位置を知ることも、来た道を振り返るのも、
行き先を楽しみに想像することもできません。「感じること」がすべてのスタート。
感じられないのは「快」を知らないだけ。
だから「快」をカラダに取り戻してもらう。
そもそも「ある」ものを引き出してくる。
これが私の整体です。
「快」と「ある」ことを知ったカラダが再び流れ動き出す突破口を見きわめること、
その人に合った流れ方を教えることが私の仕事。
眼を覆われていた肉体が光を感じ、やがて自ら動きたくなるようにする。
私のアイデンティティである文学的かつ感覚的な精神性は、
必要とされないからと長い間封印してきました。
ところが門間さんがその封印を解いてくれました!
いま、「私のアイデンティティ」とまで書けている自分と、
「感じにいく」肝要を説く自分に整合性を感じていることが嬉しい。
それゆえ、最初の構想と絵がまた変わっているだろうなと楽しみで仕方ありません。
スポーツ整体トレーナー 西川菜緒子さま
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