『瞳のなかに』|60代男性が子供の頃飼っていた愛犬のまっすぐな耳

「門間さんの描いた鹿の瞳に感動して思わずひきこまれました。その時、思ったのです。こんな目のボクサー犬の絵が自宅にあったらいいなって」とNさんは、言いました。

60代男性。背が高く、おしゃれなネクタイにスーツを着こなす、会社役員です。人情味溢れる声音が、心地よく部屋に響きます。その雰囲気から、豊かな人間力で、部下を包み込んでいるのが浮かんできます。

そして、Nさんは熱く語り出しました。「絵を見て、以前、耳の立ったボクサー犬を飼っていてとても可愛かったことを思い出しました」ボクサー犬への想いが溢れ出したのです。

「主人や家族に対する愛情の深さと忠実さで知られている。だから、家族にとっては危険のない犬だけど、見知らぬ人間には気を許さないし、勇敢で恐れを知らないから、番犬にもぴったりなのです。

遊んでいるときは快活で人なつっこくて、頭がよく従順。誠実と忠誠の鑑で、裏切ったりごまかしたりしない、本当に惚れ惚れするようなカッコいい犬なのです」

その言葉を聴いて、なぜ鹿の絵に惹かれたのかわかりました。あの鹿の絵は、依頼主の心の友として描いたものです。心や魂でのつながりを、描き出してもらいたい、という願いが伝わってきました。

「はい、真っ直ぐな瞳のボクサー犬を描かせていただきますね」と、熱い気持ちを受け取りました。

アトリエに戻り、Nさんの話を思い出しながら絵の構想を練りました。

ボクサー犬には耳の垂れたものとピンと立ったものの二種類がいますが、「Nさんが飼っていたのはどちらですか?」と聴いた時「耳は立ってなくちゃボクサーじゃない」とキッパリいいました。ピンと立っている耳は、直線的です。垂れた耳の柔らかな曲線と比べると、勢いを感じます。

真っ直ぐという形に強い思い入れがあることから、強さ、精悍さが大事なのが伝わってきます。イメージを浮かべているうちに、Nさんの、キリッとした姿勢とボクサー犬の姿が表裏一体に重なってきました。

「まっすぐに、そこにいる」という気概です。

不器用、無骨、ゆうずうがきかなくてもいい、信念を、確信を持てていれば、それに間違いがないと信じられていればそれでいい。

ピンと立った耳を持った、真っ直ぐこちらをみるボクサー犬の構図は、依頼者が言葉に表さなかった想いも雄弁に伝えてくれました。

そして、「子供時代に、芝生の庭で一緒に遊んだから、背景は美しい芝生色」です。犬と過ごした幸せな気持ちを表すとともに、現在の自分を明るく照らすような色。

ボクサーはNさんの分身。ですから、絵を通じて、暖かい日差しに照らされた芝生でNさんを包み込んで癒すのです。

完成した絵を見たNさんは、「うん、こっちに語りかけるな‥‥。じっと聴き入るような感じもする。賢い犬だな。門間さん、どうもありがとうございました。子供の頃のボクサー犬が、相棒として帰ってきてくれたようで嬉しいです」と喜びました。

絵は、かたちと形の無数の重なりの中で、あなただけの物語を紡いで語りかけてくれるのです。

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