「ふんわりした感じ」とか「パリッとした色」「爽やかな感じ」など、モヤモヤした依頼主の言葉しか浮かばない、というオーダーの依頼がよく来ます。振り返ってみれば、8割以上でしょうか。「こんなにぼんやりした依頼で大丈夫でしょうか」と心配する人もいますが、「それでいいですよ」と心から言えます。【絵は、それでも生まれてくる】のがわかっているからです。
わたし自身、なんともモヤモヤした気持ちと言葉から、絵を創り出したことがありました。「なんかこんな風に感じる」というちいさな想いのカケラを、ただただ、絵の具に重ね合わせてみたら、作品になったのです。美大で教わった、さまざまな絵づくりの技を使うことが一才ありませんでした。何も考えることなく、目の前の絵だけ。「今ここ」だけに集中して描いたのです。
「今ここ」に集中するのは、マインドフルネスと呼ばれますが、元々は全仏教「正念」の概念で、アメリカから逆輸入されたものです。簡単にいうと、心を一つのことだけに留める習慣づくり。例えば、お坊さんが座禅を組んでいる時、後ろから「わっ」と言われても、大きな音をガンガン立てられても、乱れないのですが、これは、姿勢や表情が乱れないだけでなく、脳波も乱れないそうです。
この体験で、【絵で考える】という言葉が生まれました。
絵で考えると、今までの殻をポン!と破ってくれます。「あんなに怖がっていたのはなんだったのだ?」「なんでこれに気づかなかったのだろう!」「これをやりたかったんだ」など、気づきや発見を促します。
「こんな感じ」という曖昧なものを、絵の具にのせる。必要な言葉は、「ふわふわ」とか「どん!とした」などで十分。絵のタッチで、それを表現することができます。
それは、今から20年以上前、ダブルワークをしながら絵を描いていた頃でした。どう描いても作品にならない・・・・、と七転八倒したのです。美大からやり続けてきたように、コンセプトに沿って作品構想を練って描いてもダメ。どうにも気に入らないのです。「絵を描いているのに、作品にならない」・・・・。これは、書類で言えば、「何度も文書に手を入れても、一向にまとまらない」という感じです。
さらに困ったことに、個展の日程はすでに決まっていました。作品ができあがらない一方、期日はどんどん迫ってくるのです。正直、焦りました。1ヶ月前にはもう、早朝も深夜も休日も・・・・全て使って描き倒しました。しかし、どうにもまとまりません。
もはや、頭も心も身体もヨレヨレです。その時、「作品構想自体も手放してしまおう」と浮かびました。それが浮かんだ時、「自分は逃げているのだろうか?」と一瞬思いましたが、そうではない、と気がつきました。もともと、「感じること」を通じて、生命やエネルギーを表現しようとしてきたのです。身体から湧き出る【感じ】だけに、集中しても、いいんだ!
その時、「ぶちまける感じ」が、ただ、浮かんできました。だから、バケツに絵の具を絞り出して、1メートル以上ある画面に叩きつけました。「流した感じ」が浮かんできて、水と混ぜ合わせた絵の具を流しました。今まで何度も描いてきた画面は、ぶちまけられた絵の具、流された絵の具で完全に隠れてしまいました。
ああ、完全にダメにしてしまった‥‥、と思った反面、非常にスッキリとした気持ちになりました。でも、絵を見返すのが怖くなりました。もう、ぐちゃぐちゃに違いない。正面からみる勇気がありませんでした。
しかし、翌日、気持ちを振り絞って絵を見ると、「作品」になっていました。しかもそれは、今までの考えからかけ離れた表現でした。でも、不思議なことに、見ることでストンと自分のものにできました。次の日から、その技法を使って数枚の大きな絵を立て続けに描きあげたのです。
実際、展示すると、「流れが気持ちいい」「勢いに元気になる」と、共感する声や、「技法として破綻しそうなものが絶妙にまとまっている」と評価されました。
これが、「モヤモヤした言葉しか言えないオーダーの依頼でも、大丈夫」な土台になっています。
どんなぼんやりした感じでも、絵にできます。作品になります。モヤモヤした言葉しか持たないクライアントのかわりに、絵筆を走らせて、絵から思考回路を拓くのです。
すると、「描いてもらったら、自分の言いたかったことがストンと腑に落ちました!」と目が輝きます。モヤモヤとした言葉でしか表現できないことに、自分でも予想できないものが眠っていたことにワクワクするのです。
「感じ」としても、ほんのかすかしか掴めていないものでも、絵を通じて、それを外に出せる。外に出してみた時、自分が変わる。そして、他人とも共有できるのです。