『無限億の泉(2011)』|【円】は、命の尊さを伝えてくれるカタチ:縄文と母に学んだこと

『無限億の泉(2011)』2011年の展示より
無限億の泉(2011)

生きるためにやむなく熊を殺す熊うちの名人が、やはり生きるためにやむなく人を殺す熊のために命を落とす物語。宮沢賢治の『なめとこ山の熊』
動物も人間も同じ目線で語られる考え方は、【円】で世界観を表現した縄文思想にさかのぼれると言われます。

日本の根底に縄文がある、という考えが共有されるようになりましたが、長い間、縄文を扱うのは学問の本道から外れると言われていました。
しかし、2018年に、東京博物館の平成館での「縄文―1万年の美の鼓動」が、日本での縄文ブームの火付けに。縄文文化や縄文思想が注目されて、テレビや本などの資料から身近に触れることができるようになりました。

私自身も、その頃から何度も縄文時代の資料に触れるようになり、自分の両親の田舎である秋田県にも縄文遺跡が残されていることに遅まきながら気がつきました。

そして、動物も人間も同じように尊ぶ縄文の考え方は、今の秋田を生きる人の中に自然に残されてきたのだと、母の言葉を振り返って気がつきました。私自身は、東京に生まれて2歳で神奈川に引っ越し育ってきたのですが、子供時代に飼った動物たちの生死から知らず知らずのうちに、宮沢賢治のような命への考え方を教わっていました。

あるとき、両親の田舎に帰った時に可愛がっていた手乗りインコを一緒に連れていきました。人懐こく誰にでもなれるインコだったので、田舎のお姉さんたちにもすぐ懐いて、たちまちスターになりました。みんなでインコを囲んで夢中になっていたときに、それは起こりました。田舎の飼い猫が、忍び寄ってパクリとインコを食べてしまったのです。ハッと思った時にはもう、インコは死んでいました。「なんで食べちゃうの。ひどい!大っ嫌い!!」泣きじゃくるわたしたちに、母も一緒に涙していましたが、「猫がいる家で、インコを外に出していた私たちがいけない。自然豊かなところで放し飼いの猫でだから本能のままに飛びついたと思うよ。猫を恨んではだめだよ」と、猫を責めませんでした。

猫は猫で、皆に叱られてすぐ自分が間違ったと気がついて、可哀想なくらいしょんぼりとしていたのを覚えています。

実は、その猫も友達でした。私も姉も、田舎に帰るたびに一緒に遊んでいた大切な友達でした。大切な友達に、大切な友達を食べられてしまったのがショックで、その後田舎でどう過ごしたのかはまったく覚えていません。しかし、その時の母の言葉は痛烈に覚えています。

猫の気持ちを考えてごらん。猫の自然から考えれば、猫は悪くないのだよ。だから、許してあげなさい。

宮沢賢治や縄文のように、動物も人間も同じく考える目線が心に染み渡った出来事でした。

平等に感じることは、表現に置き換えると、
なめらかで凹凸のないイメージに表現することができます。
ふんわりと穏やかで優しい感覚です。
全てを同じように包むような世界観です。

その後、【存在、エネルギー】をテーマにする私の絵の中で、円は重要なカタチになりました。最近の縄文文化の資料や本を見て、縄文人が円にこだわっていて、石や貝塚、土手、木などで、そのカタチを表現しようという記念物は、みんな円と関わりを持っていることを知りました。考え方、思想がカタチにあわわれるのは、縄文人も現代に生きる私たちも変わらないのかな、となんだか身近に感じてしまいました。

日本人は、動物だけでなく、身近にある、石、木、水、火月、太陽など自然の中に存在するモノを尊敬して生きて来たと思います。他国から、流れ着いた様々な物も含めて、受け入れながら文化を築いてきた日本。

それは、縄文時代から円の中に、様々なものとの平等なつながりをみることができる、日本人のDNAのように感じます。

円は様々な意味を表現できるカタチなので、また別の物語にも取り上げます。

無限億の泉(2011)
『無限億の泉(2011)』2011年の展示より

関連記事